稲荷信仰とキツネの由来(人糞リサイクル農法の草分け)

(ウケミタマ)
 ソサノオの人となりは、いつも乱暴を働き泣きわめくかと思えば突然大声で怒鳴り散らして皆を困らせていました。ある時は新嘗祭用の神田に籾を重播(しきまき・重ねて種を播く)して稲の生長を妨げ全滅させてしまったり、又田畑に馬を放って踏みにじり畔(あぜ)を決壊させて収穫前の稲を台無しにしたりと悪質ないたずらが絶えませんでした。
 母イサナミはソサノオの悪事は全て自分の犯した罪であると責任を深く感じて、善良な人々にこれ以上の迷惑はかけまいと、我が子のオエ・クマ(汚穢・熊、けがれ・わざわい)を除こうと熊野宮を建てて息子の罪を我が身に受けて祈る毎日でした。

 そんなある日の事です。ソサノオは母の苦しみを無視するかのようにミクマノ(熊野三山)に火を放ち、ついに熊野宮にも火の手が迫ってきました。母イサナミは燃え盛る火を鎮めようと宮に籠って身を焦がしながら神々を招いて一心に祈っていました。この時イサナミが最初に勧請したのは火の神カグツチでした。しかし祈りの甲斐もなくついに炎につつまれて焼け死ぬその一瞬に、生まれ出た次の神が土の神ハニヤスで、最後が水の神ミズハメでした。この火の神カグツチが土の神ハニヤス姫を娶って生んだ子の首から桑と蚕があふれ出てきて、へそからは稲が生え出てきました。その子の名をワカムスビ(稚産霊)と呼びました。ワカムスビは人々に衣・食を授けてくれた尊い稲荷神(いなりかみ)として別名ウケミタマ(宇迦御魂神)とも呼びました。

 不肖の子ソサノオの行末を案じつつ、心ならずも三神を生み焼死したイサナミの死骸は御心を慕う村人によって熊野の有馬(三重県熊野市有馬町)に手厚く葬られ、春の花の頃と秋の実りの頃に魂鎮(たましず)めのお祭りが数千年の時を経てなお今日まで続いています。


(ウケモチとカダ)
 太古の時代にクニトコタチが天の神アメミオヤ(天御祖)の祭に供した御食(みけ)は、まだ稲作が本格的に始まる前の事でたぶん栗やクルミといった木の実だったでしょう。天神二代目クニサッチ(国狭槌)の御子の一人からウケモチ(保食神)の一族が起こり、アマテル時代に活躍したカダマロ(荷田麿)は、ウケモチの八代目孫にあたります。
 
 その昔、葦原中国(あしはらなかくに、近畿・中国地方)を治めていたウケモチが天におられるアメミナカヌシ(天御中主)に民の為に良い食糧の種を授け給えと祈った所、その願いが天に届き太陽と月の精霊をいっぱいに含んだヒヨウル種が天から頭上に落ちてきました。ウケモチが早速恵みの種を播いたところ、太陽(ヒウル)の気を受けて水辺に生え出た穀物が水田の稲(ウルタのゾ苗)となり、月の霊気(ヨルナミ)を含んで生え育った食物は畑の作物となりました。  この時ウケモチが最初に播いた種が、八月一日(ハツキハツヒ)に実もたわわな稲穂と成って収穫の秋を迎え、刈り取った初穂を先ず三代目天神トヨクンヌシ(豊斟渟)に奉って収穫を共に祝いました。君は赤、白、黄色の木綿和幣(ゆふにぎて)をアメナカフシ(天中節)の神に捧げて感謝の祭りをし、早速精(しら)げた米(よね)を炊(かし)いだ神饌を供えました。この故事により旧暦八月朔日に友人、知人間で贈答をして祝う習慣が生まれハッサクの祝いとして江戸時代まで伝えられてきました。後に、臼と杵でついて作った餅と汁とを一月元旦に神にお供えするようになり、特に敬虔な四代目天神のウビチニは毎月一日に御食を神に奉げてお仕えしました。

 ところがどうしたわけか六代目天神のオモタル・カシコネ(面足・惶根)の時代になると、徐々に稲の実のりが落ちてきて不作の年が続くようになりました。民の暮しを大層心配されたアマテル神(天照大御神)は、かねてから良い種を育てていると評判の高いウケモチの国に行き、強い種(ウルゾタネ)を分けてもらおうとお考えになり弟のツキヨミ(月読)を勅使として派遣しました。
 実はウケモチの神一族は、天から稲の種を最初に授かって以来営々と品種改良に努めてきました。特に肥料として人糞をかけると実のりが良いことをいち早く知り、風水害や害虫にも強く実り多い品種を育ててきました。

 今回のツキヨミの派遣は、出発に先立ち事前にアマテル神の勅命をウケモチにも伝えてあり、訪問の日取りの打ち合わせも万端整ったうえでの出発でした。ツキヨミは当然のことながら貴人(きにん)の御幸(みゆき)に際して先例に慣って国境まで出迎えがあるものとあてにしていたところ、今度は迎えもなく不慣れな道をやっとの思いで七代目ウケモチの国にたどり着きました。
 ウケモチの館(タチ)に着いて用向を告げるとなんとその返事は素っ気無く、
 「今、丸屋(便所)で用をたしているので国懸(クニカケ・略してクニ・現県庁)に先に行って待っていて欲しい。」との事。殿上人を迎えるには余りにも失礼な応対で、ツキヨミはむかつく思いを何とか堪えて農園の彼方に見える国に向かって歩き出しました。土地柄や、あちこちの風景に注意を払いながら近づくと、村人達がこやし桶の口より研いだ米を出して炊(かし)いでいるのを見てしまいました。君がさらに農作業中の畑を進んでいくと、今度は汲み取りびしゃくで過って糞尿をかけられてしまい、悪いことに途中で農夫達が臭い汚穢桶(おわいおけ)にすずな(蕪、かぶ)を詰め込み、天秤棒を担いで同じ国に向かうのに出会いました。

 国に着きなんとか身体の汚れを洗い落としてからも長々と待たされた後、主のウケモチがやっと現れると君の長旅をねぎらう言葉も無く挨拶もそこそこに粗野な御饗(みあえ)が初まり、わら筵(むしろ)の上にはすず菜汁と飯だけという質素な食事が山盛りに出されていました。
 優雅な宮中の美食に慣れたツキヨミにとって、歓迎されるどころかこれでは侮辱されたと写っても無理からぬことでした。ましてや肥料に人糞を播いて作物を育てるなど前代未聞のこと、雲の上人のツキヨミが施肥の必要性など知る良しもありませんでした。全てはウケモチの素朴な性格が誤解されたとは故、ついにツキヨミは数々の無礼な仕打ちに怒りが爆発し切れてしまいました。
 「無礼者!こんなつばはきかける穢れたものが食えるか!」と言うや食事を蹴散らして立ち上がると剣を抜いてウケモチを打ち殺してしまいました。
 ツキヨミは急ぎ宮中にとって返してこの無礼者の一部始終をアマテル神に報告しました。黙って聞いていたアマテル神は驚きかつ困惑し弟をキッと見据えると、
 「なんじは、善悪の見境もない非情なやつだ。取り返しのつかない罪を犯してくれた。もう二度と顔を見たくない。下れ。」と、いつになく強い口調で叱りつけました。
 このことがあってアマテル神は一時期朝政(あさまつりごと)を離れて夜になって宮に昇る様になりました。

 アマテル神は、先の弟ツキヨミの犯した不祥事を詫びるために新たにアメクマド(天能人)を勅使に立て再度ウケモチの国に派遣しました。
 着いてみるとウケモチはすでに死亡してこの世になく、今度はウケモチの子のカダ(カダマロ、荷田麿)が失礼の無いよう宮中の風習に習って丁重にお迎えしました。すっかり打ち解けた両人は再会を誓い合い、特にアマテル神へのみやげには注意深く選別した強い種籾(たねもみ)を奉げました。アメクマドが種を持ち帰ると早速アマテル神は詔(みこと)のりを発して全国の村長(むらおさ)を集めその種を各々に配って国に持ち帰らせそれぞれ水田に播かせた所、その秋には八握穂(ヤツカボ・八握りもある大きな稲穂)が重くたれ下がり国中大豊作となりました。
 国は再び富み、民の暮しも豊かになり平和がよみがえりました。

 又、カダは一度煮た繭を口に含んで湿らせながら絹糸を引き出して紡ぐ技術を初めて考案し、民にこの製糸法を教え広めて蚕飼(こかい)の技術を普及させました。これまで諸民は麻と木綿の衣服だけ着ていたので、新たに美しい絹織物を得たことで民の生活に楽しみが増し、カダは正に民の田守り司(たもりつかさ)と後々までもあがめられました。


(ムツノハタレの戦い)
 暗くつらい不作の時代に、実りの多い強い稲を献上して国の危機を救ったカダは、今は有力な臣(トミ)として宮中で政りごとに参画する様になりました。しかしアマテラスの御世が静かで平和な年月ばかりではありませんでした。

 全国から六種類(ムツ)のハタレ(悪魔)が一斉に蜂起し、アマテラス朝の転覆を計って進撃してきました。ハタレの中でも特に手ごわい相手は、九州から海を渡ってここ中国(なかくに)の花山野(京都伏見、山科地区)に攻め上ってきた三兄弟供です。彼等の名をキクミチと言い、三人は花山野で仲間を集めて益々勢力を強め都へと進撃を初めました。
 キジ(急使)が飛び交い、敵の様子が刻々と宮中に伝えられてきました。又被害にあった諸民の訴えが後から後から続き、宮中はその対応にてんやわんやの大騒ぎになりました。

 ついに、アマテル神はウケモチの子孫カダマロに自国の敵情を視察してくるようにとの詔のりを下しました。今を盛りの若きカダマロは命を受けると直ちに神軍(すめらみいくさ)を引きい花山の野に至りました。沢に分け入り軍を進めるとハタレ共は、”乱れ菊”の術を使い野山を花いっぱいに埋めつくして咲き乱れ、かと思うと花の色を次々に変えて惑わしてきました。余りの怪しさに皆唯々茫然としていると、いつの間にか何万何十万というキクミチの軍団に取り囲まれて身動き一つできなくなっていました。と、どこからともなく急に妙(たえ)なる音色に合わせて美しい乙女の姫舞踊(ひめおどり)があちこちでくり広げられ、しばし幻想の世界へと引きずり込まれてもう為すすべもありません。
 この時、突然むら雲がわき起こりあたりを覆ったかと思う間も無く真闇(やみ)が襲い行く手をはばみました。何千何万というダビ(松明)が野や山に立ち上ったかと思うと、ホタル火が夜空に飛び交い、かと思うと笑いあざける声とともにイカリ火が次々と立ち昇り、消える間もなく青タマの炎が頭上から降り注いできました。進退窮まった神軍はジリジリと後ずさりして引くと、カダマロ一人宮中に馳せ帰り一部始終をアマテル神に報告しました。  報告を聞いていたアマテル神はしばし考えて詔のりしました。
 「これはキクツネの術に違いない。」
 「暦(ホツマ暦)の上でキツネ(狐)とは、キ(木・東)はネ(根・北)より成る(木は根から生ずる)。ツ(西)からサ(南)を経てネ(根・北)に来て住めるネスミ(根住・鼠)おば捕らえて油に揚げてご馳走してやるがよい。」
 「又、クツネ(狸)はキツネと同じ獣(けもの)の様でちょっと違い、キツネの尾の火(陰火)が嫌いなのだ。」
 「この術に打ち勝つには、やつらの嫌いなオガ(生姜)とメガ(茗荷)を燻(いぶ)してやっつけるがよい。」と、詔のりがありました。

 詔のりを受けたカダマロは、諸神にキクツネの本性を教え、再び隊を整え花山野に進軍しました。
 今回もハタレ三兄弟引きいる悪魔共が花と咲き乱れておどろかし、幾重にも色や形を変える妖術で化かしにかかってきました。
 カダマロは、アマテル神から授かった秘密兵器の”揚げねずみ”をキツネ魔軍の中に次々と投げ入れました。するとキクツネ共は先を競って貪り食らいつき術が乱れた所を神軍が勇敢に戦いを挑み、すきをつかれて化けの皮がはげたキツネ共は我先にと逃げ出しました。そこをここぞとばかり追いつめて先ず千人を捕らえたところで斬り殺そうとしたところ、捕虜共が一斉に嘆きわめいて命乞いを初めました。
 「我らは全員、アマテル神の良民として帰順します。君のために尽くしますから命ばかりはお助け下さい。」
 これを聞いたカダマロは、素直に彼らのことばを信じて縄を解き許してやりました。早速服従したキツネ共に命じて多くの藁縄(わらなわ)をなわせて、三つの里に渡る程の広大な網を作って次なる戦いに備えました。
 残るキツネ軍団に向けて、風上よりハジカミとメガを燻して煙で覆いつくすと、敵の術が乱れてひるんだ所に再度戦いをいどみ巨大網に追い込みました。徹底的にたたいて捕虜となし、先の戦法と同じ方法でついにキツネ三兄弟のハタレ頭(カミ)も捕らえて強力なわらび縄でひっくくりました。
 逃げ惑う残党共は再度先に造らせたミサト(三里)の網を野に張って、皆追い込んで一網打尽にし玉繋ぎにしたその捕虜の数は何と三十三万匹にも及び、三人のハタレ頭(カミ)を牢屋に入れ国神に預けて神軍(かみいくさ)は大勝利の内に本宮へと凱旋しました。

 戦いすんで後に、捕虜としてお白州(しらす)に引きすえられたキクの三人を鏡の前に打ち据えて写して見ると、パッとすぐにキツネの影が表われたので、名前を”ミツギツネ”と付けました。捕えられた三十三万のキツネ共は神議(かみばかり)の決議により、全員死罪と決まりタマダチ(死刑)することになりました。
 その時カダの神が突然思いつめた面持ちでキツネを助けて欲しいと命乞いを初めました。
 「皆、今では罪を悔いて、スメラギの民(オオミタカラ)となることを願っています。何とか許してやって下さい。私が責任を持って良き民となします。」
 が、こんなことでは諸神は同じません。カダの神はキツネ共を何とか救おうと、七度にも及ぶ誓いを立てて必死に頼み続けました。
 物につかれたように夢中で嘆願(たんがん)するカダの一途な姿を見て、諸神達もやっとキツネ共を許す気になりました。

 先程からその一部始終を見ていたアマテル神から、ここで詔のりがありました。
 「カダの神の温情に免じてミツヒコ(三彦)と配下のキツネ共の事、今回は特別に許そう。そのかわりキツネ共に全員ウケノミタマ(宇迦御魂神)を末長く守らせよ。もしも約束をたがえる事あらば、直ちに死刑にせよ。」
 「カダの神!なんじにこの者共を今日より部下としてつけるにより、良き民となすべく指導せよ。」
 カダの神は、アマテル神からキツネ共の恩赦を受けると、その課せられた条件をミツギツネに告げました。
 「兄彦はここ宮中に残って御食(みけ)を守れよ。中彦は山城の花山野に行き、又弟彦は東国のアスカ野に下り、それぞれ三方に分かれて田畑の鳥やねずみを追う仕事をせよ。まめなせ。」

 今回の天照神の詔のりにより、キツネ共はウケノミタマとウケモチと、カダの三神(稲生・稲荷神)の守護役として後世までも付き従い、民の御食をお守りすることとなりました。

終り

出典
ホツマツタエ(国立公文書館蔵)
秀真(ほつま)政傳紀(和仁估安聰訳述)
高畠 精二