ヤマトタケルの東征とオトタチバナ姫

 マキムキ(纏向)のヒシロ(日代)の御世四十年、六月(セミナツキ)の事です。
 突然、ホツマ国の国守オオトモノタケヒがサカオリノ宮(旧、ハラノ宮、現浅間神社)から上京して願い出ました。「辺境のエミシ(蝦夷)等が、再三騒動を起こし、国の掟に背いて治安を乱し国境を侵しています。どうか一刻も早く有力なスメラミイクサ(神軍)を率いて御狩りにご出発下さい」と乞い申し上げました。

 君は早速諸臣(モロトミ)を召集して宣はく、「ホツマ(東国)のエミシ(蝦夷)等が、再々法を犯し略奪を行って国民を苦しめている。今日ここにエミシ征討の将軍を選び、東国鎮撫に遠征させたいと思うが、誰が良いか申し出てみよ」しかし、誰一人として口を開く者はなく、息苦しい沈黙が続きました。ついにヤマトタケが最初に口火を切り、胸の思いを君に申し上げました。「先の西討(クマソ征伐)には、我と我が臣等が活躍しました。今度東を討つのは当然モチヒト兄の番です」

 それを聞いていたオオウスはやおら戦慄(わななき)声を上げて逃亡し、草の中に身を隠してしまいました。一部始終を見ていた君は、使いを出して兄オオウスを探し出し御前に呼び戻すと、責めていわく、「汝(いまし)兄よ、おまえの恐れ逃げる後ろ姿を見て、期待は完全に裏切られた。我が子とはいえホトホト愛想が尽きた。なさけない。もうよいからミノ(美濃)の国を守っておれ」と、言い捨てました。

 これを聞いていたヤマトタケが雄叫びを上げ、「西を平定してやっと帰京できたと思う間もなく、今度は我が臣達に休む閑も与えないまま、東の辺境へと戦いにまいります。いつの日にかきっとエミシ等を平定して、東国の民ともども平和に暮らせる世の中が来ることを信じ、たとえ我と我が臣等の上にいかなる困難が襲い掛かろうとも、共に力を尽くして必ずや勝利してまいります」

 この時、スベラギ(景行天皇)は手に矛を捧げ持ち、「我が聞くところによるとエミシ等は皆、入れ墨で身を飾り性格は狂暴、秩序を守る村長(アレオサ)も無く、酋長(ムラキミ)等はお互いに略奪を繰り返し、又、山の木を勝手に切り火をつけて焼く山荒しや、生業もなくうろつき物を乞うカダマシ者や、たむろして道を塞ぎ物を奪うチマタ神(岐神)、中でも特に手強いエミシ等は、父子男女の差別なく乱婚して岩穴に住み、獣血を好み、毛皮を着て獣のように早く走り、天への感謝を忘れて人に仇をなし、常に弓矢を携えてうまく獲物を射止め、刀舞(たちまい)を好んで踊り、一族群れて辺境を犯して作物を盗み、野山を走り逃げ隠れするカクレンボの術に長けていて、古来よりアメナルミチ(天成道)を拒み天朝に逆らい続けているという」

 君はここまで話すと再びヤマトタケを見据えて、「今、改めて汝を見るに、汝(いまし)こそは容姿端正にして、百人力の勇者だ。行く処、敵無く、戦えば必勝間違いなし。今やっと解った。汝は確かに身体は我が子でありながら、実は神が、私の力不足の世の乱れを案じて、汝を天降らした神の子に違いない。汝こそが天壌無窮の御代を嗣ぎ天下を治める皇位継承の位である。どうか深謀遠慮を忘れず、御身に備わった神の威光を信じて恵む心で敵に接し、秀でた真の教えによって、カダマシ(姦者)者達を神の世に帰順させよ」と言いつつ、御矛をヤマトタケに授けました。

 矛を重重しく拝領したヤマトタケは、この時、父ミカド(帝)に感謝の心を込めて最後の決意を力強く述べ、「昔、御霊(みたま)の天恩により無事クマソを征伐することができました。今も又、君の御霊によりて、天の威厳(いず)を借りて、仇の群居する辺境の地に行き臨(のぞ)み、服(まつわ)ざる者供を打ち負かしてまいります」と言い終わるや、深く拝礼して君の御前を辞しました。

 いつも身際(みぎわ)に控え侍るキビノタケヒコ(吉備武彦)と新たに加わった強力な助っ人オオトモタケヒ(大伴武日)を両翼の武将と定め、ナガツカハギを膳夫(かしわで)に伴い、十月二日(カナヅキフカ)に諸将を引き連れ皇軍(ミヤイクサ)は門出しました。

 ヤマトの道を横切って進み、七日には伊勢神宮に赴き天照神に東征の戦勝祈願をしてから、磯辺(イソベ)の伊雑(イサワ)宮に坐す斎宮ヤマト姫に暇乞い(いとまごい)に伺いました。「君の仰せにより、仇打ちにまかります」と、伝え聞いたヤマト姫は、神庫より取り出した錦袋(にしきぶくろ)を左手に捧げ、右手には剣を持ち、御皇子(オミコ)に向い凛とした声で神妙に告げました。
 「この袋の中味は、汝の先祖、天孫ニニキネが自ら記した秘密のお祓いの璽(おしで)が入っています。もしも緊急事態に陥った時、この呪術により火水埴(ヒミヅ)の難を祓い退けなさい。又この剣は、昔、ソサノオが出雲の国を開いた尊いムラクモ(叢雲剣)とはこれなるぞ。この二種とも吉を呼ぶ宝物です。慎みて受け、仇を平定して無事帰られよ。くれぐれも油断なきよう、注意をおこたらず行くがよし」と。授けました。

 昔、崇神朝の頃、シラギ(新羅)の王子アメヒボコが来朝し、天皇に服つらい帰化した五代孫のタジマモリ(田道間守)(アメヒボコ、モロスケ、ヒナラギ、キヨヒコ、タジマモリ)の遺書にいわく、「私は天皇(垂仁)の勅を受けて東国(常世国)視察に赴きました。東夷の国々を巡り見ての感想は残念ながら一朝一夕に天朝に服すのは難しいことを悟りました。せめて君との約束のカグの木(橘樹)を得たいと考えて、タチバナノモトヒコ(橘元彦)の家に荷を解き、じっくりと土地の風俗に馴染み親しみながら年を重ねるうちに早十年が経ってしまいました。その間やっとヒタカミノミチノク(日高見君陸奥)とシマズミチヒコ(島津道彦)と親睦を深めることができました。

 ヤマト国とヒタカミ国との間の立場の違いも良く理解できたので、しばらくして後、ご報告を兼ねて念願のカグを君に献上しようと苦労して運んで上京する間に、君は先に神上がられてしまいました。何故もう少し早く帰京できなかったかと千々(ちぢ)に悔やまれてなりません。今このカグを若宮(景行帝)に奉ります。君よ、どうか僕(やつかれ)が、モトヒコの家で結んだ兄弟の滴(しずく)の源流(みなもと)を思しめして、ホツマ(東国)と友好関係を保って平和裏に国を治めて下さい。

 実は、私の妻はモトヒコの娘ハナタチバナ姫でございます。姫は今、私の子を身籠っております。私は先帝亡き後、いまさら何を生きがいにこれ以上生き長らえましょうか。どうか私を不憫に思して、ハナタチバナ姫と生まれ来る子をよろしくお願いいたします。平和な君の御世の永らんことを切に祈りつつ伏してお願い申し上げます」この残し文が語るようにタジマモリは、君の陵(みささぎ)の前で来る日も来る日も、君への思いに身をやつし、ついに泣きながら天上の君の御もとへと、みまかりました。

 このタジマモリの遺言により、天皇はタケウチノスクネ(武内宿禰)と話し合った後、先ずカグモトヒコの家にタケウチを派遣して味方につけてから、今は亡きタジマモリの一粒だね、実は今はヤマトタケのスケツマ(典侍)のオトタチバナ姫(弟橘)にホズミテシ(穂積臣橘右近)とサクラネマシ(桜本臣左近)を付けて、先駆けとして東国に遣わし、その後間もなく皇軍が下りました。

 事の急変を知ったヒタカミは急ぎモトヒコに使いを遣り、味方につけようと色々工作しますが、頑として傾きませんでした。サガム(相模)の小野に城を構えて、テシとマシ等が将兵を率いて守りを堅め、ヤマトタケの御幸狩(みゆきがり)を今か今かと待ち望んでいました。エミシ(東夷)の類(やから)の対応は素早く、ヤマトタケは富士の裾野でまもなくエゾ等と出会います。事前に待ち構えていたエゾ等は計略をはかり、ことば巧みに申すには、「この辺は、野鹿の息が霧のように立ち昇り、しばしば野を踏みしだいて困ります。木の枝の乱れ絡みで鹿の道が解ります。どうぞ望み巡りて狩って下さい」

 これを聞いた君は、「げに」とばかり鹿を求めて野に入りました。頃を見計らって賊等が火を枯野に放って焼きます。ここで君は、欺かれた事を知るとすぐに切り火を起こして、向かえ火を放ちました。そしてヤマト姫から授かった錦袋から取り出した火水埴(ヒミヅ)の祓(はら)いを三度祈りました。と、間もなく東風が西風へと急変し、火が仇の頭上に覆うのを見た味方の兵は、賊共を草中に追い回し相戦っている時、君がムラクモの剣を抜いて草を薙ぎ払うと賊軍の周囲に燃え草が飛び行き、一気に野火が燃え広がって、ついに賊軍(アダイクサ)を焼き滅ぼしてしまいました。ここがヤケズノ(焼津)と言い、この時から剣の名前もクサナギの剣と呼ぶようになりました。

 この事件があって急にサガムの城の窮状を知り、皇軍(ミヤイクサ)は急ぎアシガラ山(足柄山)に至りました。その頃すでにサガムのオノの城は数万の敵兵に包囲されていたものの、タチバナモトヒコ及び右近、左近率いる将兵は堅固に防戦し、数に勝る敵に一歩も譲らず相戦っていました。難攻不落を知った賊軍は今度は作戦を変え城のまわりに薪を積み上げ火攻めの戦いを仕掛けてきました。七十日間も日照りが続いた後だけに賊の放った火で乾ききった薪が燃え広がり、城は一気に火の海となり炎に包まれました。

 この時ヤマトタケは、ヤグラノ岳(矢倉岳)に登ってサガムの城を遠望して、遠く離れた城から火の手が上がるのを見て、緊急の作戦を取り、先ずキビタケヒコの軍を南方のオオイソに向けて出発させ、次にオオトモタケヒの軍をオオヤマ(大山)の北側に巡って裏より入城させ、南北に別れて敵を挟み撃ちに追いつめ戦いました。

 ヤマトタケは髪をすき身を清めると、急造した白樫の木刀をハラミ(富士山)の御柱に見立てて火水埴(ヒミヅ)の清祓いを三度祈りました。  と、ハラミ山のコノシロ池の龍(タツ)が現われて、龍の雨を降らせて城の火を消し、これを知った皇軍の兵は勇み立って一気に敵に戦い挑み、ついに半ばを撃ち殺しました。敗残兵共も皆四方に逃げ失せれば、皇軍(ミヤイクサ)の兵は皆一斉に、「万歳(ヨロトシ)、万歳」のときの声を上げて、苦戦の末の勝利に酔いしれました。

 城門が開き、いよいよ皇軍の将兵が入城しようとする時、オトタチバナ姫はいち早くヤマトタケに走りより、温かく迎え入れ、君の手を取ってやさしくねぎらいながら、こみ上げる涙に声も途切れとぎれに、思いのたけを訴えました。「私を初め城を守る将兵の各々が、あの火攻めにあって城も燃え落ち、もう焼け死ぬのを覚悟で戦いました。君の祈りが天に通じたお陰で龍の雨が降り、今こうして幸いにも君のお顔を再び拝むことができました」と、喜びの声もふるえて、とめどなく流れる涙に袖を濡らしました。

 戦いの決着がつくとモトヒコは、四方に触れを出して、「以後服従せぬ者共は、捕えて死罪に処す」旨を伝えると、農民達は皆服(まつ)ろい来たりて、君の御狩(みかり)を乞い願い出ました。東(ホツマ)の事始めとして十二月八日にヤマトタケは、橘籠(カグカゴ)を立てて御印として巡狩し、ホツマの民が皆君に帰順し、平和がよみがえったのを共に喜びました。

 時にヤマトタケがオオイソ(大磯)からカズサ(上総国)に渡ろうと軍船で渡航された時のことです。海上で突然暴風に襲われて、強風と高波に翻弄された船は舵が取れず海の藻屑の様にあてどなく浮き沈みを繰り返し漂っていました。その時の事です。荒れ狂う風をなんとか鎮めようとオトタチバナ姫は舳先(へさき)に登り天地に船の加護を祈っていわく、「我が君の厳(いつ・大功)をヤマト(国)に立てんとす。我、君のため龍神(たつ)となり、御船(みふね)を守らん」と言いつつ、海に飛び込みました。とっさの出来事に同船の諸将も驚いて海中を探しましたが、ついに見つけられませんでした。まもなくうその様に波は和(な)ぎ、船は無事カズサ(上総)に着きました。

 カズサに上陸したヤマトタケは、榊(さかき)の枝に鏡を掛けて霊飾(たまかざり)とし、これを君の御印としておし立てて皇軍(みやいくさ)はヒタカミ国へと向いました。香取神社の神主カトリトキヒコ(香取時彦)と鹿島神社の大神主のカシマヒデヒコ(鹿島秀彦)及び息栖社の神主のイキスオトヒコ(息栖乙彦)の三人は、事前にオオカシマの命を受けて皇軍を出迎え奉りました。クニナズオオカシマ(国摩大鹿島)は多くの兵のために御饗(みあえ)を盛大に開き、ヤマトタケ一行を心から歓迎しねぎらいました。ここ鹿島殿にしばらく回船を待って皆滞在し、英気を養った後、再び葦浦(アシウラ)を越えてナコソ(勿来)浜に着きました。
 
 君がここに行宮(あんぐう)を造営し、ご滞在中の事です。
 エミシ(蝦夷)の賊首(ぞくしゅ)ヒタカミノミチノク(日高見神陸奥)及びシマズミチヒコ(島津道彦)と国造(くにつこ)五人、県主(あがたぬし)、邑司(むらつかさ)等、計百七拾四人と数万の兵が各々弓矢を携えて武装し、竹の水門に結集して皇軍の行く手を拒み、一触即発の臨戦体勢で布陣していました。

 これを知った君は、オオトモノタケヒを正式に勅使として敵方に遣わして、両首領を召されました。シマズの神は事前に君の威勢に恐れをなして、たとえ戦っても勝目は無いと知り、弓矢を捨てて降伏し、君の御前にひれ伏して服(まつろ)いました。が、ヒタカミノミチノクは、君の要請を無視して動ずる気配がありません。そこでヤマトタケは再びタケヒを勅使として日高見の陣屋に赴かせて、粘り強く説得に当たらせることにしました。

この度は、ミチノクが勅使を門まで出迎えて陣中に座をしつらえると間もなく、
ミチノクいわく、「今汝、人間(ひと)の天皇(スベラギ)に仕えて君と言っているが、仕える汝も衰えたものだ。今頃ノコノコやって来て我が国を奪うつもりか」
タケヒのいわく、「いなや、神の皇子(みこ)が汝を召せど服(まつら)わぬゆえ、打ち滅ぼしにまいった」

ミチノク答えて言う、「いったいこれは何のこと、何の謂(いい)、それ我が国(ヒタカミ)はオオミオヤ(大御祖神)のタカミムスビ神(高皇産霊神)が国開き、七代(ナナヨ)のトヨケ(豊受神・伊勢神宮祭神)が位(これ)を嗣ぐ。この時、日の神(天照神)もこの地日高見のヤマテ宮(仙台宮)で天成神道(アメナルミチ)を学ばれた。だからこの地を日高見(ヒタカミ)と言うのだ。天照神の皇子(みこ)オシホミミは、タクハタチチ姫(豊受の娘)との間に皇子を二人儲け、兄はアスカ親王(クシタマ・ホノアカリ・テルヒコ)として大和国に封じ、弟はハラ親王(天孫ニニキネ)でホツマ国に封じ、その時アマテル神からヒタカミ国を賜わったのが我が先祖のタカギ神(高木神)で、十四代目の裔(はつこ)の我までは、他国の援助を一切受けずに独立国として今日まで守ってまいった。以前、タケヒト(神武)が正統なアスカ宮を打ってヤマト国を奪ったのは神の道に反しているぞ。これ故、汝等の行為を認めぬのだ。今、又突然現われて国を取らんとするのか。これでも神の天皇(スベラギ)かや。単に人の統治者(スベラギ)ではないか」

 ミチノクの言い分を黙って最後までうなずきながら聞き終えたタケヒは、いわく、「これ汝、井中(いなか)に住んで沢(さわ)を見ず。という言葉を知っているかな。一見道理にかなった話に聞こえるが、正当性に欠けている。そのわけを説いて聞かせるからしかと聞くべし」

 タケヒはここまで話すと一息入れて四囲を見回し、耳をそばだてて真面目に聞き入る賊将達にも理解が得られるよう、ていねいに話し始めました。
 「昔、アスカの臣(トミ)ナガスネが無断で春日の神庫から世嗣紀(よつぎふみ)を盗み出す悪事を働いたのにいつまでもアスカ君が糺(ただ)さぬゆえに、
乗り降(くだ)せ 秀真(ほつま)路
弘(ひろ)む下界(あまも)岩船(いわふね)
 この歌が世に流行して、シホヅチの翁がタケヒト(神武)に、「これ行きて、東征(むけ)ざらんや」との進言によりヤマトを糺(ただ)せば、オオン神(大照神)も夢枕に現われて、カシマ(鹿島神)に詔して、「行きてヤマトを打つべし」その答えは、「我行かずとも平国(くにむけ)の剣降してタカクラ(高倉下)に、これ捧げしむ」とあった。タケヒトは、君としての人格を十分そなえ威徳もあるので、天神より続く神の御子として今日まで代々に天照(あまてら)している。汝、代々君無くして暦(こよみ)をいずれから受けるのか」答えて、「伊勢(いせ)」と。

又いわく、「天照神(アマテル)が最初に暦を作り授けたので、田植えの時期も正確になり、お陰様で民の糧(かて)も増えて、皆命を保っているではないか。神は今も百七十九万三千年続いているこの世を見守って、今は太陽の日輪内(ひのわち)にお帰りになり御座します。御孫(みまご)ニニキネは民を豊かに治めたので、天照日に準(なぞらえ)て天君(あまきみ)になられたであろう。汝は代々実りを受けて命を保ちながら、今だに君に感謝の返礼もせず詣(もう)さぬようでは、その罪が積もり積もって幾らぞや。どうじゃ抜け道ありや。まだ我が君は神でないと言えるかな」と語りました。
 この時、ミチノク初め全員が平伏して服(まつら)い来たので、ヤマトタケはミチノクの罪を許して、ナコソ(勿来)より北はミチノク国(陸奥)と名付け賜わり、国神(クニツカミ)に新たに任命して、百(もも)の県(あがた)から初穂(はつほ・年貢)を捧げさせました。

 ツガルエミシ(津軽蝦夷)は島津道彦に与えて、七十県から初穂を捧げさせました。南はヒタチ(常陸)、カズサ(上総)、アワ(安房)、の三国をミカサカシマ(大鹿島)に賜わり、カシマヒデヒコ(鹿島秀彦)及びトキヒコ(香取時彦)、オトヒコ(息栖乙彦)の三人に、ヤマトタケの御衣を賜わりました。  国造(クニツコ)の五人が神の道を学びたいと強いて願い出るので、召し連れてニハリの宮に向いました。
 エミシ(島津道彦)からの献上品は、数峯錦(カゾミネニシキ)十端(トハ)と、鷲の羽(わしのは)の尖り矢(とがりや)百手(ももて)を奉りました。  ミチノク(陸奥)からは黄金十斤(トオ)を、熊襲矢(クマソヤ)百手(モモテ)を奉りました。

 去年から引き続き天気快晴でしたが、正月二十八日に大雪が降り、君はソリに召してサガムの館に向い、ただ今お着きになりました。そこにはトラカシワ(虎柏)なる者が君のお着きを待ちかねていました。トラカシワは君が野戦で失った馬具の鐙(あぶみ)の片方を、野で拾って考えた末、榊(さかき)の枝に鐙を差して御霊飾り(みたまかざり)を作り、君の御前に奉りました。
 君は大そうトラカシワを誉めて、鐙を拾った所をタマガワアブミ村(現・厚木市)と名付け報賞として賜わりました。又君はこの場で論功行賞を行い、片鐙(かたあぶみ)を差した霊飾り(たまかざり)にちなんで、戦歴の地をミサシ国(武蔵)と命名し、サガム国(相模)と一緒に、この度の戦(いくさ)で最も戦功の大きかったタチバナノモトヒコに与え、国神に取り立てました。

 マチカ・テチカ(右近・左近)の臣(とみ)の二人は、オトタチバナ姫の入水このかたずっと亡骸(なきがら)を海辺に探し続けていました。
 ある日、思いがかなってオオイソの海岸に姫の櫛(くし)と帯を手に入れることができました。姫が肌身につけていた遺愛の品々を手にした二人は、生前の美しく聡明で心やさしく気丈な姫に、再度触れて悲しみも新たにこみ上げ、姫のためにツガリアビキ(連雁天引)の祭をとり、姫の御霊を天国に届けました。形見の品はオオイソの山に塚を造って埋め、その上に神社(やしろ)を建てて神として祭り、名もアヅマモリ(吾妻森)と名付けました。マチカ・テチカの二人はついに姫への思いから、オトタチバナ姫の御霊をお守りして代々ここ大磯に留まりました。

 ヤマトタケはこの度の戦いで、自分の先祖霊が必ずやスサノオであることの確信を得て、河合(かわあい)の野に大宮を建ててお祭りをし、ヒカワ(氷川)神を祭らせました。
 戦勝記念に武器をチチブ(秩父)山に納めて、二月八日再び武蔵国を巡幸した時に人々が服(まつ)ろう印として、橘籠(カグカゴ)を家棟(やむね)に捧げて君を歓迎しました。事はすべて納まり平和がよみがえりました。そして、橘籠(カグカゴ)を捧げるのはホツマ国の世よの習慣となりました。  帰路ムサシの国を後にして、ウスイの坂(碓井)まで来た時、ヤマトタケは別れた姫を思いだし、東南(キサ)の海をはるかに望み、今は亡き姫と我との短い生涯を思いやり、姫の形見の歌冊(ウタミ)を胸からそっと取り出して見て、
さねざねし  サガム(相模)のオノ(小野)に
焼ゆる火の  炎中(ほなか)に立ちて  問(と)いし君わも
 この歌を三度読み「吾妻あわや」と悲しみ嘆き涙しました。
 これが東国(アズマ)の語源となりました。

終り

出典
ホツマツタエ(国立公文書館蔵)
秀真(ほつま)政傳紀(和仁估安聰訳述)
高畠 精二