タジマモリ、常世国(とこよくに)と橘樹(たちばな)

 ミズカキ宮(第十代崇神帝)三十九年、ヒボコと言う者、ハリマ(播磨国)に船で来朝し、しばらく停泊した後に、アワジ(淡路)のシシアワ村に移動しました。

 その時君は、オオトモヌシとナガオイチの二人の臣をハリマに派遣して質問させると、「私はシラギ国王の王子で、名前をアメヒボコと申します。日本には大変優れた聖人(ひじり)の御門(みかど)が居るとかねて聞いていましたので、君にお仕えしたいと願い、弟のチコに国を譲ってはるばるやって参りました」この由を君に告げると、君は早速アメヒボコに対し、「ハリマのイデサ村(出浅村)とアワジ国のシシアワ(宍粟)村を与えるから自由に住むがよい」との詔がありました。するとヒボコが願い出て、「もしお許しいただけるならば、住む所はこの美しい国を自分で巡り見てから決めたいと思います」と、申し上げました。

 君のお許しが出るとアメヒボコはウジ(宇治)川を遡り、アワウミ(近江)のアナ(吾名)村にしばらく住み、供(とも)の陶人達(すえびと)をこの地のハザマ(現・鏡谷)谷に定住させて、さらにワカサ(若狭)を巡り見て後、タジマ(但馬)国に落ち着きました。時にアメヒボコはこの地の豪族イズシマフトミミ(出島太耳)と言う者の娘マタオオ姫を娶ってタジマモロスケ(諸助)を儲け、モロスケはヒナラギ(日楢木)を儲け、ヒナラギはキヨヒコ(清彦)を儲け、キヨヒコが儲けたのがタジマモリ(但馬守)です。

 タマキ宮(垂仁帝)八十八年六月十日の事です。

 君(イクメイリヒコ・イソサチ)が詔して、「私が聞いたところによると、昔シラギ王子のヒボコが産物(みやげ)に持参した神宝がタジマに秘蔵されていると言うが、今見たいと思うのでアメヒボコの曾孫(ひまご)キヨヒコに勅使をつかわそう」
君の詔を受けて参上したキヨヒコが奉った宝物は、ハボソ(葉細玉)、アシタカ(足高玉)、ウカガ(鵜鹿河)玉、各一個。イズシ(出石)小刀一口。イズシ矛一枚。ヒカガミ(日像鏡)一面。クマノヒモロゲズ(熊神籬)一式。イデアサ(出浅)の太刀(たち)一振。
 キヨヒコはこの八種のうち、何故か先祖の思い入れが強くて離し難い、イズシ小刀だけをそっと袖中に隠し持ってなにくわぬ顔で太刀を自ら佩(はく)いて昇殿しました。この一件に気が付かない君は、興味深く宝物類を見て大変喜ばれ、キヨヒコに天杯(てんぱい)を賜わりました。

 お神酒(みき)を呑もうとした時のことです。小刀がスルリと落ち出て見つかってしまいました。君は見ていわく、「それ何ぞ」と即座にお聞きになったので、キヨヒコもこれ以上隠せず、献上すべき宝物の一つでございます」と、白状すると、君は又問うて、「その宝物はそんなに離し難い物なのか」と、聞かれました。
 この様なわけで、結局全ての宝物は捧げられ宮中の神庫に納められました。後に蔵を開いてみると、どうしたわけか小刀だけが消え失せてしまい見つかりません。大騒ぎになり君は再びキヨヒコを召し上京させて、「もしかすると小刀が又そっちに行ってないかね」と問いました。キヨヒコが答えて言うには、「昨年の暮れ頃、小刀が自ら帰ってきましたので不思議に思いましたが、明くる日又、消え去っていました」この話しを聞いた君は、急ぎ衣を正すとかしこまり、二度とこの件に触れず、不問とされました。

 小刀は自然に自らの落ち着き先を求めてアワジ島に飛び行き、ご当地で神として祭られ、社が建てられました。

 九十年二月一日、タジマモリに君の詔がありました。
 「タジマモリ、橘樹(カグ)を求めに常世国(トコヨ)に行けよ。我れ思うに、カグの木は、クニトコタチがトコヨ宮前に植えて国を開いたという御世(みよ)の花である」

 九十九年七月一日、この年君は百三十七歳で崩御されました。
 皇太子は喪中最後の四十八日目の夜、埴輪建物(ハニタテモノ)の製造を命じ、自らの喪服を脱いで陵に納めました。

 十二月十日、スガラフシミ(菅原伏見)陵では盛大な葬送の式典が夜っぴいて繰り広げられました。無数の松明(ダビ)に写し出された飾り建物の埴輪達は列をなし、人々の悲しみに打ちふるえる心を写して、心なしか涙に濡れていました。
 満天の星空の下、透明な御柱(みはしら)を伝って、天上サゴクシロの宗宮(ウジミヤ)に御幸(みゆき)される大君の御魂が放つ一閃(いっせん)の光芒(こうぼう)を誰もが心深く憶いて、君の再来を信じて日の出を待っていました。
 
 明る春弥生、タジマモリが常世(とこよ)の旅から帰ってきました。君との約束を果たして土産は、トキシク橘果(カグツ)を二十四籠(かご)、及び橘樹(カグノキ)四竿(ヨサホ)を、供の者に担(にな)わせて、多くの困難を乗り越えて帰って来ました。
しかし、帰ってみれば君はすでにこの世にはなく、君の喜ぶ笑顔を見たい一心で一路急いだ京への遠い道も、君の温かな御心に触れるねぎらいの言葉を心の支えに急いだ夜道も、雨や日照りから、カグの鮮度を保つために心をくだいた配慮の数々も、それもこれも君への一途の思いがあればこそ、何の苦にもなりませんでした。

 タジマモリは土産の半分を東宮(わかみや)に献上して、残る半分を君の陵(みささぎ)の御前(みまえ)に捧げ、涙ながらに復命いたしました。
 「君の命を受けて、このタジマモリは橘樹(カグノキ)を求めにはるかなトコヨに行ってまいりました。トコヨの国とは、神仙の隠れ住むという、他に比べ得えない程説明しがたい仙境でした。彼の地の言葉や風習も全く変わっていて、習慣に馴染むのにも十年の年月がかかってしまいました。
 今こうして困難にもめげず君の奇霊(クシヒル)に守られて、やっと帰ってまいりました。が、君は今すでに世を去り、そのお声、そのお姿を拝することとてもうできません。
 臣(とみ)はどうして、君のいないこの世を生きてられましょうか」と、涙ながらに泣き伏して自ら死んで行きました。
 居並ぶ群臣たちも皆、一途で素直なタジマモリの思いに涙しつつ、橘樹(カグ)四本を正殿前に植樹し、残りの株四本をスガワラの陵に植えて、君とタジマモリへの手向け(たむけ)のよすがとしました。

 実はタジマモリは遺書を東宮(わかみや・オシロワケ、タリヒコ)に残していました。皇子(みこ)はこの文(ふみ)を見たまいて、「橘君(カグキミ)の娘ハナタチバナ姫は、彼(タジマモリ)の妻である。早速オシヤマスクネを彼の地に派遣してタチバナモトヒコ(橘元彦)親子を京に呼び寄せよ」と申しつけると、父モトヒコとともに娘のハナタチバナ姫が上京してきました。皇子(みこ)は大変喜ばれて父子を迎えると、モトヒコに御依(みは)を賜わり、タジマモリの喪を勤めさせました。ハナタチバナは懐妊していましたので、君の配慮で宮中に留め置くよう手配が整えられました。

 サツキの末に、姫が産んだ女児に君は詔して、「故人(ムカシノヒト)の魂(たま)の緒(お)を止めているので、良く似て美しい子だ。オトタチバナ(乙橘)姫と名付けよう」と言い、名付け親となられました。ハナタチバナ姫には、生前のタジマモリに顔や姿が良く似ているオシヤマに母子共に嫁がせて、深き恵みを垂れたまいました。

 このような深い縁が結ばれた結果、後にヤマトタケル(タケ)の東征を可能にし、成功に導くキッカケの本縁(もとおり)となりました。

 タジマモリの墓は、現在奈良市尼辻町にある垂仁天皇の大きな前方後円墳の周濠中に浮かぶ小島が彼の墓だと言われています。又、持ち帰った橘はその後、垂仁天皇の纒向珠城宮(マキムクタマキ)のあった穴師(アナシ)の里に植えて広められ、ここのミカンは代々天皇に献上されるようになり、現在でも十二月の暮れから春先に掛けて山の辺の道を歩くと、一面のミカン畑が色づいて香(かぐ)わしいかおりに包まれています。

”タジマモリの墓は。。。。。包まれています。”までは、
「歴代天皇100話」林睦郎監修 を参考にさせていただきました。

終り

出典
ホツマツタエ(国立公文書館蔵)
秀真(ほつま)政傳紀(和仁估安聰訳述)
高畠 精二