ホツマツタエ 天の巻 6アヤ [目次] [英語] [仏語]


アマテル神、中宮セオリツ姫と十二后

 その頃、ハラミ山(蓬莱山、現・富士山)の西南の山裾野では、天子(アメミコ)をお迎えする新宮の造営が何年にもわたり盛んに進められてきました。そしてこの年は、ウビチニ歴(天神四代目)から二十一鈴の百二十六枝、年はサナトの弥生一日、一心に汗を流した人々の念願が叶い、天子(アメミコ・アマテル神)はヒタカミの国(現・仙台市、多賀城市付近)からお帰りになり、新しい宮居にお移りになりました。

 なんと喜ばしきことでしょう。なんと晴れがましいことでしょう。なんとさやけきことでしょう。
 天子(アメミコ)はご誕生以来十六歳までここハラミの宮(現・富士宮市浅間神社)で、ご両親(イサナギ・イサナミ)の愛を一身に受けてお育ちになりました。十六歳の時、祖父(母方の父)のトヨケ神(豊受神・伊勢外宮祭神)の坐すヒタカミのヤマテ宮(仙台宮)に、天成道(あめなるみち・帝王学)を学びに御幸されて二十八歳の今日まで人々の天子への思いは募るばかり、それはもう一日千秋の思いでお帰りをお待ちしていました。
 帰京早々、両神(ふたかみ、イサナギ・イサナミ)の詔(みことのり)が諸神(もろかみ)に伝えられ、ヤソキネ(豊受神の子)を中心にして、天子のお后選びの神議(カミバカリ)がおごそかに進められました。

 全国の有力な国神(くにかみ)の姫の中から、素直で気立て良く、聡明で見目麗(みめうるわ)しい姫達を選び、日の神アマテラスを中心に十二人の姫を月に例えて十二月として東西南北の四方に配しました。その位は上位よりスケ(典侍)、ウチメ(内侍)、オシモ(御下)の三階級としました。
 今回初めて十二后を立てたそもそものわけは、若仁君(ワカヒト)の三代前の祖神(おやがみ)の第六代天神オモタル・カシコネに世嗣子(よつぎこ)が無いばかりに、一時期政(まつり)が途絶えて国の平和が乱れてしまった反省から、この度はイサナギ・イサナミの英断により決まりました。

 十二后達は、天君(あまぎみ)を真中に据えて太陽とし、東西南北に月を配して三人づつ代わる代わる君にお仕えして、皆それぞれ機織(はたおり)をして操(みさお)を立てました。
 やっと神議(かみばかり)も終わり、人々に政(まつり)ごとが発せられました。
 先ず最初にイサナギの弟君クラキネの娘が北局(ネのつぼね)に決まり、姉のマス姫モチコがスケ后となり、妹のコマス姫ハヤコはウチ后に、カダの娘アジ子はオシモ后となりました。次に東(キ)のスケ后にはヤソキネの娘オオミヤ姫ミチコが成り、同じくヤソキネの娘タナバタ姫コタエはウチ后にツクバハヤマの娘ソガ姫は東(キ)のオシモ后です。南(サ)のスケ后は前々から評判のサクラウチの娘、名(な)をサクナダリ(瀧落降渓流)セオリツ姫ホノコ、その妹のワカ姫ハナコは南(サ)のウチ后に、カスヤの娘イロノエ姫アサコがオシモ后です。西(ツ)のスケ后は、カナサキ(住吉神)の娘ハヤアキツ姫アキコの称名はシオのヤモアイコ(潮の八百会子)、ウチ后はムナカタの娘オリハタ姫オサコ、オシモ后は同じくムナカタの娘トヨ姫アヤコと決まりました。

 どの姫達もそれぞれにお美しく聡明でしたが、その中でも生まれつき素直でお美しい一人の姫に天君はついに心を奪われてしまわれました。本来ならば君たるもの、姫を迎えて品定めをする時は殿にいて殿前(トマエ)でお目通しするのがしきたりとなっていましたが、この時ばかりは自ら階段(キザハシ)をお降りになり、姫の前に立たれて迎え入れたほどです。この姫の名をサクナダリ・セオリツ姫ホノコと申します。さくなだりとは、岩を割いて流れ降る清い渓流を意味し、正に名が体を表わした美しい真名(いみな)でした。称名(たたえな)は君との感激的な出会いに因んで天下る日前向津姫(アマサガルヒニムカツヒメ)と申し上げ、ムカツ姫の御名は後世までも君との出会いを伝える名として残りました。

 君はついに、ついに勇気を持ってご自分に忠実になられ、万難を乗り越えてセオリツ姫をご自身の坐す内宮(うちみや)に入れて一緒に暮らす決心を詔(みことのり)して世に触れました。
 これが、中宮制度の初まりとなりました。
 
 セオリツ姫が中宮に上られた後の南(サ)のスケ后の後任にはカナヤマヒコの娘のウリフ姫ナガコを臨時に起用して備えとしました。カナヤマヒコは古中仙道(こなかせんどう)を拓いた有力者で娘のウリウ姫の名前は、暦の閏月(うるうづき)として臨時を表わす語源となり今日に伝えられています。
 日月は巡り時は移ろい、日の神アマテルの御世は事もなく、神のご威光は国のすみずみにまで照りとおり、人々の暮らしは日のお陰(光)を受けてますます豊かに平和が長く続きました。

 そんなのどかなある日のこと、ミヤズ(宮津宮、現・丹後一宮籠神社、コノ)から急使が飛び来って、トヨケの伝言をアマテル神に伝えました。君は取るものも取り敢えず、急ぎ丹後のマナイガ原(現・比沼麻奈為神社、ヒヌマナイ)に御幸され、アマテル神にとっては祖父でもあり道の教師(オシエド)でもあったトヨケの神と久々に再会を果たし、お互いに夜っぴて来し方行く末を語り明かしました。トヨケは立派に国を治める君に心から尊敬の念を表わし言葉をつくしてねぎらった後に、今生(こんじょう)の別れを伝えました。
 「昔ワカヒト君には、天成道(アメナルミチ・帝王学)の全てを語り伝えたが、最期のその時に道奥(みちのく・奥伝)を授けようと、やっと今日までここで君を待っておったのじゃ」
 「さあ諸神達(モロカンタチ)もしかと聞くがよい。『君は幾世(いくよ)の御親(みおや)なり(万世一系の皇祚、こうそ)』 これこそがクニトコタチ最期の詔のりなり」との遺言を残し、洞(ほら)を閉ざしてお幽(かく)れになりました。

 君は磐境(いわさか)を築いてねんごろに神葬祭をし、その上にアサヒ宮を建てるとアサヒ神の贈り名をトヨケに奉りました。この宮は日出ずるヒタカミ(日高見国)の波高く昇る朝日を称う神の名です。
 四十八(ヨソヤ)夜の喪祭(もまつり)も明けて後に、君は宮にお帰りになろうと出発の準備に取りかかると、聞きつけた民が君の御手鳳車(ミテグルマ)にしがみつき、涙顔で出発を止めようと集まって来るのを見て、素朴な民の心根を憐れんでしばらくこの地に止まり自ら政(まつり)を執ることになりました。

 この事情を急使の伝言で知った中宮セオリツ姫はアマテル神に代わって詔のりを発し、ヒタカミ国にトヨケ神を斎(いつき)祭らせて後、北(ネ)の局のモチコのスケ后とハヤコウチ后、アヂコオシモの三局(みつぼね)に、
 「マナイの原に早や行きて、宮仕えせな」と、君のお傍(そば)に送り出しました。これは長期単身赴任で何かとご不自由の多い君のご苦労を案じてのご決断でした。
 後、トヨケ神の治めたサホコチタル国(現・山陰地方)も無事治まり、後任人事も済んで君はソサノオとアマノミチネを随神(ずいしん)にして弥生(やよい)の十五日に帰路につき卯月(うつき)十五日、一行はハラミノ宮(現・富士宮市浅間神社)にお帰りになりました。君はかねてよりヒノハヤヒコ(鹿島神宮祭神・建御雷神・タケミカヅチ)に詔のりを出していました。

 「汝、国絵を写すべし」

 ヒノハヤヒコはヤマト(日本)全国をくまなく巡り、日本全国の絵地図を絵描(えが)いて奉りました。君は早速この地図を参考にして都を遷そうと計画され、オモイカネ(アマテルの姉ヒルコ姫の主人・右大臣)に命じて宮を造営させると、完成を待ってイサワに遷都(現・伊雑宮、三重県志摩郡磯部町)しました。  ここに居ます時、ムカツ姫がフジオカアナ(藤岡穴山)のオシホイ(現・伊勢外宮宮城内、下御井神社しもみい、別名忍穂井神社おしほい)の縁(みみ)に産屋(うぶや)を造ってご出産になられた皇子をオシホミミと名付け、オシヒトを真名(イミナ)とし全国に触れました。又ご誕生の祝賀に集まった民には神の御心のこもった祝餅が配られて、諸民は日嗣皇子(ひつぎみこ)誕生を心から祝い万歳万歳(ヨロトシ、ヨロトシ)の声がいつまでも続きました。

 しかし、この様に一点の曇りもない君(きみ)、臣(とみ)、民(たみ)の平和なお国の歳月にも、満れば欠けるの喩(たと)えの様に、やがてむら雲の沸き起こる兆しを誰が予知できたでしょうか。
 アマテル神の弟ハナキネ(ソサノオ)が何とこともあろうに天君の后の北(ネ)の局に入り侵り、スケ后のモチコと妹のハヤコの居る大内宮(オウチミヤ)に折々に宿る様になり、ついに陰(かげ)のみやび(密通)に明け暮れる事となりました。

 セオリツ姫はソサノオと姉妹の局との関係を薄々感じていたものの、アマテル神のお立場や心中をお察しして、長らくこの事を胸の内に納めておきました。
 ある日のことです。中宮は密かに二人を内宮(うちみや)にお呼びになり、二人共北(ネ)の局を解任して、しばしの暇を言い渡し、ほとぼりが冷めるのを待つことにしました。後任にはムナカタの娘のもと西(ツ)のオシモのトヨ姫を据えました。

 大内宮(オウチミヤ・東の殿に桜を植えてオウチ宮)に下って激しく嘆き悲しむモチコとハヤコ、ソサノオは義憤と同情から我が事の様に怒り狂い、ついに耐え兼ねて、中宮への怒りもあらわに血相を変えると剣をわしずかみに駆け出さんとするのを、なんとか押し止めなだめたのはハヤコでした。
 若く血気盛んなソサノオに向い、ハヤコは毅然としかし静かに言い放ちました。

 「功(いさおし)ならば天(あめ)が下(した)」(手柄を立てるなら、天下を取れ)

 この言葉は、単に中宮セオリツ姫への恨みつらみを飛び越えて、アマテル神殺害を暗にほのめかす大蛇(おろち)と化した女の執念と嫉妬心が、牙をむき出し炎を吐いて、君と中宮に襲いかからんとする悪魔のささやきでした。
 その時、この緊迫したやりとりを何も知らないハナコ姫が来合わせたために、皆慌てふためいて一旦は矛を隠してその場を何とか取り繕ったものの、このただならぬ空気はすぐにハナコの悟るところとなりました。
 ハナコもその場は何食わぬ様子で切り抜けたものの、隠しおくにはあまりにも事は重大で時も切迫しており、ついに姉セオリツ姫に一部始終を告げました。聡明で心優しいセオリツ姫は何とかこの難局を良い方向に解決しようと思いを巡らし、一旦は事を心中に納め置いて時のくるのを待ちました。

 ある日のこと、セオリツ姫はアマテル神がヒタカミのタカマガハラ(地上の高天原・現仙台、多賀城市付近)に御幸された後に、モチコ、ハヤコをお呼びになり心を込めて切々と諭されました。
 「二人共既に解っている事だが、君と汝等姉妹とは冷え切った食事(関係)なので二人の居場所はもうない。この場は私に任せ、私の言う事をとくと聞きなさい。実は今度の一件をツクシ(筑紫)のアカヅチ老翁(おじ)に良く頼んでおいたので、ウサ宮(現・宇佐神宮、大分県宇佐市宇佐)に行って、時の来るのをおとなしく待ちなさい。くれぐれも真面目に反省して、罪を償えば私がきっと局に復帰できるよう計らうから、どうか素直に私の言う通りにしてほしい」
 「又、モチコの生んだタナキネは、古来より男児は父に附ける習わしなので私が預かって立派に教育するから心配しないで良い。ハヤコの生んだ三つ子の三女(タケコ、タキコ、タナコ)は母に附けるから自分で育てなさい。必ず心静かに待つのですよ」と、丁寧に諭されて、一旦は不承不承ながらも身に覚えのあること故、やむなくウサ宮へと下ることになりました。

 ウサでは、アカツチ老翁が新后(アラキサキ・改心)として、両人と三女をお迎えするための宮を改築して、不自由の無い様に万端整えて心から歓迎しましたが、何といっても宮中の華やかな暮らしとは格段に違い、ここ宇佐は静かで淋しい田舎暮らしのことゆえ我がままに育った二人に馴染むべくもありません。三女の養育も放ったらかしにしたままモチコ、ハヤコの両人は出奔してヒカワ(現・斐伊川・出雲)を目指して流浪姫(サスラヒメ)となりました。
 もともと両人の父上クラキネは、おそれおおくも、ネの国(北陸一帯)とサホコチタル国(山陰地方)を統治する有力な貴族でした。今度の左遷で何が両姉妹を傷つけたか、それは何と言ってもセオリツ姫の中宮への強引な昇格でした。次に許せない屈辱はモチコがセオリツより先に生んだタナヒトを当然日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)として皇位を継承されるべきなのに棚上げされて、皇位を継ぐ皇子に付けるヒト(仁)の名も勝手に外してタナキネに変えられ、ムカツ(セオリツ姫)の子にはオシヒトとヒトの字を冠して、一方的に我が子の皇位を奪われた事でした。
 「我等が家系はムカツより上じゃ。父のクラキネは、国の開拓神イサナギの弟君ぞや。ムカツなんぞは今でこそ鏡の臣(かがみのとみ)とはいえ、元を正せばただの一国神(いちくにかみ)にすぎまい。身分の低い者からあれこれ指図を受けるいわれなどサラサラないわ。たとえ君の寵愛を受けようが、我等に非があろうが、血統(シム)の道が許せぬのじゃ」

 「我等が領地ヒカワに辿り着けば、強力な助人が大勢いるわな。特にシラヒト(白人)、コクミ(故久美)両人には命を助けてやった貸があろう。彼等が一族郎等と組んで必ずやムカツに仕返ししようぞ。蛇(じゃ)の道は蛇(へび)、一族は皆我等に従い地獄の果てまで行くのじゃ。怖いものは何一つ無いわあ」

 事がこれでおさまらないのが、ソサノオです。生来が粗野で乱暴なうえ、亡き母への屈折した思いが、モチコ、ハヤコの両局に交うようになった原因となり、他に多少とも同情に値する過去の不幸な事情もありました。
 アマテル神がミヤズノ宮で一時期政務(まつり)を執っていたある日、ソサノオが祖父トヨケを祭るマナイガハラ(真名井原)のアサヒ(朝日)宮に天君の名代として詣でた折りの事、参拝する美しい手弱女(たおやめ)に目を止めて、侍者にどこの誰かを尋ねると、
 「アカツチノ命のハヤスウ姫(早吸日女神社・大分県佐賀関町)です」との答え。早速しきたりに従いツクシ(筑紫)のアカツチ宮に勅使を飛ばして姫との結婚を申し込んで事はうまく運んだものの、日頃の悪事や乱暴狼藉なふるまいが災いして、神議(かみばかり)の末、今だ保護観察の身分で熊野の大臣、早玉雄(ハヤタマノオ)と事解雄(コトサカノオ)の元にあり、結局独立の宮を許可されず、この結婚話はまとまりませんでした。失望と身の置きどころ無き悲痛な日々に、同情を求めてモチコ、ハヤコの局に通い詰めたのが事の発端でした。
 唯一の理解者であった親しいモチコ、ハヤコは自分の犯した罪が原因で遠流(おんる)となり、今はもう甘える術(すべ)もありません。ソサノオは益々荒れ狂い、年中行事で最も大切な新嘗祭(にいなめさい)用の苗代(なえしろ)に重播(しきまき)して神田をだめにしたり、田に駒を放って暴れさせ、畔道(あぜみち)を壊して稔りを台無しにしたりの悪事の数々を繰り返し、神聖な新嘗祭で君がお召しになる神御衣(かんみは)を織っている斎衣殿(いんはどの)の戸に糞尿を撒くやら悪事は益々悪化してゆきました。

 織姫達に恐怖心を抱かせぬように殿の戸を閉ざしたところ、ソサノオはついに切れて、屋根を破って斑駒(ぶちごま)を投げ込むという暴挙をしでかしました。あろうことか真下で一心に機織をしていたハナコの頭上に馬が落下して驚き動転したハナコの手に持つ梭(ひ)が身を突き、不運にもみまかってしまいました。
 「ハナコが神去りました」と、泣きわめく姫達の悲しみの声を聞きつけて、馳せ参じたアマテル神もついに語気を荒げてソサノオをしかりつけます。

 「お前は国を乗っ取ろうとする心汚い奴だ」
 「天成る道を教えるこの歌を味わって反省せよ」と言って、歌をお与えになりました。

天(あめ)が下  やわして巡る日月(ひつき)こそ
晴れて明るき  民(たみ)の両親(たら)なり
 ハナコ姫を傷つけて死なせた決定的な悪事を最後に、高天(たかま・宮中)では諸神(もろかみ)による神議(かみばかり)が召集され決議によりソサノオの罪状が言い渡されました。罪科はかつてない厳しいもので、一般には天の巡りの三百六十科が死罪と決まっていますが、ソサノオには、その三倍の千科(チクラ)の死刑が科せられました。この三折死(ミキダガレ)とは三回死ぬほどのむごい刑死をいいます。刑が序々に執行され、髪も抜かれ、爪も剥(は)ぎ取られつつある時です。突然、セオリツ姫の勅使から急な知らせが告げられました。
 「ハナコの御霊(みたま)は、ウケモノ(倉稲神・うけみたま)に祈り、死の苦しみから救い上げ無事天国にお送りしました。ソサノオのハナコ殺しの四百科はすでに償われました。ソサノオの性格は生まれつきの遺伝です。情状酌量により減刑し獄舎(ろうや)を出してやれないものでしょうか」

 なんと高貴な優しい御心でしょう。健気(けなげ)で一途に生きた姉思いの妹を失った悲しみを乗り越えて、憎んでも憎み足りない罪人の減刑を真剣に乞う尊い慈悲心こそが、若きアマテル神をして自ら階段(キザハシ)を降りて手を取ってお迎えしたセオリツ姫の雅(みやび・愛情)にあったのです。

(後記)
 ここに記された姫神(ひめがみ)達の物語はまだまだ続きますが、幸い薄きハナコの伝えはここでぷっつりと途切れています。
 奈良県桜井市に稚桜(わかさくら)神社という小さな社(やしろ)が、幹線道路から入ってすぐの住宅街の小高い丘に人知れず鎮まっています。こここそがハナコの父、鏡の臣(左大臣)の桜内命(さくらうちのみこと)が愛する末娘の為に涙を押さえて自ら屋敷内に築いた手向けの杜(たむけのもり)であると信じてやみません。因みに桜内命を称える歌に、
左は谷の桜内 御世(みよ)の桜の 太平歌(ならしうた)
 この歌の谷は地名で、現在も稚桜神社は谷町に祭りられているのが検証となります。又姉のセオリツ姫を祭る佐久奈度(さくなど)神社も旧名を桜谷社といい、いずれも桜と谷の関係を伝承しています。因みに桜井市の名もこの小さなお社に有る日本最古と伝える桜井の井戸から名付けられました。

終り

出典
 ホツマツタエ (国立公文書館蔵)
 秀真(ほつま)政傳紀 (和仁估安聰訳述)


 高畠 精二


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