景行帝とヤマトタケルのクマソ征伐

 即位二年三月、オシロワケ・タリヒコ君はキビツヒコの娘のハリマノイナヒオイラツ姫を中宮にたてました。  三年十二月十五日、后は年末の年中行事の餅花(まゆ玉)造りに参加して、碓(うす)の近くで楽しみながら手伝っている時産気づき、無事二子をお生みになりました。

 そこで早速、皆が子供達の名前を付け、兄の名を餅仁・大碓皇子(モチヒト・オウス)として、弟の名前を花彦・小碓皇子(ハナヒコ・コウス)とつけました。二人共、幼くしてその人となりは容貌勇健で、長じて身長一丈にもなりました。しかし兄は臆病で軟弱、弟は二十人力で勇猛そのものでした。

 十四年新春、ミノ(美濃)の国のカンホネの娘の姉妹が国一番の美人だとの評判が君に伝えられました。  君は早速オウス(兄)を遣わして、姉妹を呼び寄せることにしました。オウス皇子はミノに行き、その美しい容姿を一目見るなり心を動かし、密かに密通してミノに滞在したきり復命しませんでした。この時兄は十一歳、身長は八尺近くありました。君は兄の無礼を咎めて帰京を許しませんでした。

 この年七月、ツクシ(筑紫)国のクマソ共が国に背いて朝貢をしませんでした。故に各県主(あがたぬし)から、君の御狩(みかり)を乞う書状が、矢継ぎ早に届けられました。君は早くも八月十五日から御幸され、九月五日、すでにスオウ(周防)のサバ(佐波)に至ると南方を望み見て、「殺気(ザガ)息立つは、賊供のしわざかや」と宣いました。

 そこで君は、忠臣のオオノタケモロとキノウナデ、及びモノベナツハナの三人を先遣隊として敵情を探らせました。そこに、カンカシ姫という人望高き諸族を従属させた一国の頭(神)が、君の使者の知らせを聞いて突然船で現われました。姫はシズ山(磯津山)の榊を抜き取り、上の枝には八握剣(ヤツカハツルギ)を、中枝に八呎(ヤタ)の鏡を、下枝に曲玉(マガタマ)を飾りたてて、白幡を船の艫(とも)と舳先(へさき)に揚げてやってきました。

 「我が同類(たぐい)は、全員裏切る事なく天朝に服し、君の御狩に従います。唯残念ながら、ハナダレ共が乱れて国境を侵し、山野を跨(また)がり、悪名を良いことに我が物顔でのさばり、ウサ(宇佐)にたむろして賢(さか)しらに鳴り響いています。又、ミミダレも貪(むさぼ)りて、民の糧をかすめ取り、ミケ川(御木川)の上流に群れています。又、アサハギも同類(たぐい)共を集めて、タカバ(高羽)川上にとぐろを巻いています。又、ツチオリとイオリもミドリノ(緑野)川上に潜伏し、険しい渓谷を利用して悪事の限りをつくしています。これらの者達は皆、要路(かなめじ)に陣取り往来の妨害をしています。これ等、長(おさ)と名乗る悪党共を討ちとってください」

 ここで、タケモロは計略を練り、赤絹被(あかぎぬはかま)や種々の引出物を山と車に積んで引き廻り、悪のアカハギを先ず召し寄せて、この者達に引かせて諸共が集まった所を徹底的に討ち殺しました。
 君はこの後、御幸してトヨ(豊)国のナガオ(長峡)に行宮(あんぐう)を建てて、仮都(かりみやこ)としました。

 十月にはハヤミ(速見)村に至り、長(おさ)のハヤミツ姫(メ)は、御幸の報をいち早く聞いて自ら君の一行をお迎えして申し上げるには、「ネズ(鼠)の岩窟(いわや)に、二族のツチグモが住み着いていて、名はアオクモとシラクモと言います。ナオリ(直入)県のネギノ(禰宜野)には、三族のツチグモが居て、ウチザルとヤタとクニマロを合わせた五族は仲間に強力共を大勢集めているので、真面(まとも)に掛かると戦(いくさ)となります」と。
 ここで君は、進み得ず、早速クタミ(来田見)村の仮宮で作戦会議を開いていわく、「苦境にあるこの時こそ、逆に多くの衆兵を動員して一気に打って出るべきだ。クモ等はすきを突かれて恐れをなし、各々分散して逃げ隠れするはずだ。後はゆっくりシラミ潰しに退治すれば良い」と。

 山の椿を切り出し、槌を大量に用意して、剛の者を選んで槌を持たせ、山を穿(うが)ち草を分け、岩窟に潜むクモ等を徹底的に打ち殺して廻ったので、イナバ(稲葉)川辺は血の川となり、次にウチザルを討とうとツバキイチ(海石木市)から、ネギ(禰宜)山を越すときのこと、賊の横矢が雨より激しく降り注ぎ、一歩も前進出来ずに再びキワラ(城原)に戻って太占(フトマニ)で占い作戦を立てたところ、ついにヤタをネギノ(禰宜野)に打ち破り、ここに至ってウチザルが降伏を願い出ました。君は許さぬゆえ、クニマロも一緒に瀧に身を投げことごとく滅び去りました。

 十一月に行き至った仮宮は、ヒウガ(日向)のタカヤ(高屋)宮です。
 十一月五日、クマソを討つための策議が開かれました。詔があり、「我聞くクマソとは、兄(エ)アツカヤと弟(オト)セカヤと言って、人の頭(かみ)を気取り、群衆を集めてクマソタケル(熊襲梟)を名乗っている。この二人に立ち向かえる者もなく、我が兵は数で劣勢にあり、民兵を多く動員すれば民に多大な犠牲を与えることにもなりかねない。武力を使わず敵を倒す戦法をとろう」との意向を表明すると、一人の臣が進み出て申し上げるには、「クマソには、フカヤとヘカヤという二人の娘がいます。その容姿はキラキラと輝き精神はりりしくもあります。この際、高価な宝物を引出物に用意して二姉妹を召し入れて、隙を狙って虜(とりこ)にすべきです」
 君は、「良からん」と決定すると、美しい絹織物を用意して二人の娘を身元に呼び寄せ、手厚く恵を与え親切にもてなして二人を懐柔しました。
 すると姉のフカヤが申し上げるには、「君よ、どうかご心配なされるな。私に名案があるので御任せ下さい」というや、皇軍を引き連れ家に帰ると、兵(つわもの)を隠しおいて、父に酒を多量に飲ませました。父はついに泥酔してその場に伏して寝てしまいました。その間に父の弓弦(ゆみずる)を切っておき、兵を手引きして父アツカヤを殺させました。

 スベラギは姉が肉親を殺したことを憎んでどうしても許せず、結局殺しました。しかし、妹のヘカヤは、その国の国造に取り立てて、叔父セカヤの子のトリイシカヤと結婚させ後を継がせました。
 この後、ツクシを完全平定するまで六年間、このタカヤ(高屋)の行宮(あんぐう)に滞在しました。この間、このソオ県主の娘の美しいミハカセ姫を后として迎え、トヨクニワケの親王が生まれました。母と子はこの宮に留まって後に、日向の国造の祖となりました。

 十七年三月十二日、コユガタ(子湯潟)のニモノ(丹裳小野)に御幸され、東方をはるかに望み、古(いにしえ)に思いを馳せてのたまうは、
御祖天君(ミオヤアマキミ) 高千穂の 峯(みね)に登りて 大日山(ヒノヤマ)の
朝日に辞(いな)み 妻向い 上下(かみしも)恵む 神となる 国の名もこれ
力は上(かみ)を あまねく照らす モは下(しも)の 青人草(あをひとくさ)を
恵まんと 鳴る神(雷)の雨 良き程に 別けて 稲畑(ミゾロ)の潤いに
民賑(たみにぎ)わせる 功(いさおし)は 加茂別雷(カモワケツチ)の
神心(かんこころ) かくぞ思(おぼ)して 神祭(かみまつ)り
 都の空を望み忍んでの御歌に
愛(はし)きやし  我家(わぎえ)の方ゆ  雲居(くもい)立ち
雲は大和の  国の秀(まほ) 又棚引(たなび)くは  青垣(あおがき)の
山も籠(こも)れる  山城(やましろ)は  命の真麻(まそ)よ
煙火(けむひ)せば  唯、 皇子(みこ)思え  香久山(くのやま)の
白樫(しらかし)の枝(え)を  髻華(うず)にさせこの子
 十八年三月、帰京途上の御狩りに発たれました。
 ヒナモリ(夷守)という所に近づくと、イワセ(岩瀬)川辺に立ち遠方を望むと何やらガヤガヤと人群が出来ているようすです。弟ヒナモリに見に行かせました。帰っての返答は、「諸県主(もろあがたぬし)等が君を迎えるため大御食(オオミケ)を捧げようと、イズミ姫(泉姫)の家に集い用意している集会です」とのことでした。
 又、行き進み、四月三日にクマノ県(ガタ・熊野)の長(おさ)のクマツヒコ兄弟(エト)を召し呼びましたが、兄(エ)ヒコは来ましたが、弟は来ません。
 臣(とみ)と兄ヒコとに、天朝に従うように諭させましたが、拒み出頭しないので誅(つみ)しました。

 二十日に海路を往き、アシキタ(葦北)の小島に泊まった時、日照りがきつく君は水を欲しましたが、どこにも泉が見つかりません。その時、ヤマベコヒダリが、水を天に祈ったところ、岩角(いわかど)に清水が湧き出したので、この水を捧げました。故に、この地の名をミズシマ(水島)と名付けました。

 五月一日(サツキハツヒ)に、船を馳せてヤツシロ(八代)に向かいました。
 やがて日もとっぷりと暮れてしまい、何とか接岸したものの、そこがどこの土地か分かりません。君は、「火の光るところに船を差し向けよ」との詔をしました。
 やっと対岸に着き上陸して、「ここは何村」と問えば、答えは、「ヤツシロ(八代)のトヨムラ(豊村)です」又、燃える火の光を聞けば、「火の主が解りません。あれは人の火ではなくシラヌヒ(不知火)です」と聞き、大変興味を覚えた君はここをシラヌヒ(不知火)国と名付けました。

 六月三日、タカク(高来)県(あがた)からタマギナ(玉杵名)村に船を渡し、この地のツチグモのツヅラという頭を退治しました。
 十六日はやっとアソ(阿蘇)国に至りました。
 四方は広大な風景で、一軒の家すら見えません。君はおもわず、「人はいるのか」と、宣いました。するとたちまち二神が出現し名をアソツヒコとアソツ姫と名乗りました。
 「君何ぞ、人無きやとは」と言えば、君がいわく、「なんじは何者ぞ」答えていわく、「我等は国神(くにつかみ)、なれど残念にも社殿は破れ朽ちて今はありません」
 これを聞いた君は早速、詔りして、立派な社を建てました。二神は大層喜んで、この社殿(やしろ)を立派に守護したので、この土地に民家が多く建ち並ぶようになり、国は再び賑わい民も増して豊かになりました。

 七月四日、ツクシ路後(ちのち・筑後)のタカタ宮(高田行宮)に入られると、間もなくこの地の大御木(オオミケ)が倒れました。木の長さは九百七十丈もある大木で、諸民はこの木の上を踏み歩いて、往来(ゆきき)にこんな歌をうたいました。

朝霜(あさしも)の  御木の棹橋(さおはし) 宮前(まえ)の君
いや、渡らずも  ミケ(三池)の棹橋(さおはし)
 君がこの木について問いかけると、一老人(おきな)が答えて、「この木は檪(くぬぎ)の木です。倒れる前は朝日の影がキジマ(杵島)峯にかかり、夕日の影はアソ(阿蘇)の山を覆っていました。これは神の御木(みけ)です」
これにより、土地の名もミケ(三池)と名付けました。

 ヤツメ(八女)県を越えて、前山の南方を遠望し、アワミサキ(粟崎)を見て、君いわく、「山峯重畳(やまみねかさなりたたみ)うるわし、国神(かみ)ありや」
 この時、ミルサルオウミ(水沼県主猿大海・みぬまのあがたぬしさるおうみ)が申し上げるには、「ヤツメの姫神は常に山中にお住まいです」と。この故、この地をヤメの国(八女国)の名が起こりました。

 八月に入り、イクバ(的)村に着きました。
 この日、御食(みけ)をお進めする時、膳部(かしわでべ)がお皿を忘れてしまいました。村長(おさ)が理由を述べて、「昔、天御子(あめみこ)が御狩(みかり)の日に、この地で御食(みけ)をとられて、その時も膳(かしわで)がウクハを忘れ、実は私等の国言葉で、お皿のことをウクハ(浮羽)又、イハとも呼んでいます。これは大変めでたい古事にならったものです」と答えました。

 十九年九月八日(ソコホナガツキヤカ)、君は御狩を終え日向(ヒウガ)を発ってマキムキ(纏向)の日代(ヒシロ)宮に、無事帰京しました。

 二十七年クマソが再び背き、又国法を侵し国民を苦しみ初めました。十月十三日、君の詔が発せられ、「今度の戦は、我が皇子(みこ)、コウス(小碓)に討伐させることとする」
 命を受けたコウスが申すには、「もし良き射手がいれば連れていきたいと思います」それを聞いた臣(とみ)等が、一斉に言うには、「それはミノ(美濃)のオトヒコが秀でています」との返事でした。
 早速、カツラギ(葛城)のミカドなる者を遣わしてオトヒコをお召しになると、オトヒコは臣下のイシウラノヨコタテとタゴノイナギを引き連れて参上しました。

 コウス皇子(みこ)一隊は、十二月に筑紫に着き、クマソ等の動静や地形を密かに窺っていました。
 ある日、トリイシカヤ(クマソの頭目)が支配する川上に、梟(タケル)の一族(やから)共が群れ集まり宴会を開いていました。この報を受けたコウスは、乙女(おとめ)姿に変装して、御衣(みは)の内に短剣を隠し持つと、休息中の乙女達の見物客中に紛れ込んで時を窺っていました。
 まもなくトリイシカヤは美しい衣装に身を包んだ高貴な乙女姿に目をとめ、自ら出向き手携(たずさ)えて室に入れると、一段高い花むしろの上座に座らせ、酒の酔いも手伝って戯れからかってお楽しみでした。

 やがて夜も更け、羽目を外して騒ぎすぎたクマソタケルにも酔いが回ってきた頃合を見て、コウス君は肌に付けていた剣を抜き持って、タケルの胸を一刺に貫き通しました。タケルはとっさの事に抵抗すらなく、コウスの動きを制するように手を動かすと、「今しばしお待ちを! 剣を留めよ! 事あり!」と最後の声をふりしぼって哀願しました。君は手の力を弛めてタケルの言い分を聞こうと、待ってやると、「汝は一体何者ぞ」と問いかけられ、「天皇(スベラギ)の子のコウスなり」と答えると、タケルは又続けて、「我はこれ国の武人(つわもの)ぞ、何人(なんびと)も我が武力に勝るものはなく、皆我に従ってまいった。が、君のごとき勇者を我知らず、奴(やっこ)の捧ぐ御名(みな)を君召すや」君が聞き入れると、「今よりは、ヤマトタケ(日本武)とぞ名乗らせよ」と言いつつ、静かな最期をとげました。ヤマトタケは直ちにオトヒコを差し向けて、残党共を皆打ち殺して凱旋しました。

 ツクシより船での帰路、アナト(穴門)・キビ(吉備)に上陸して、荒ぶる賊を殺しつつ、ナミハ(難波)・カシワ(柏)の悪者を討伐して帰京しました。

 ヤマトタケの復命は、「天皇(スベラギ)の御霊(みたま)によりて、クマソ等を我が手にかけて直接殺すことができました。今度はクマソを徹底して殺しましたので、これからは西国にも平和がよみがえり、国も豊かになるでしょう。唯、キビ、アナト、ナミハの海賊共が沿岸を荒し回り、又路行く人の妨げともなっていました。禍(わざわい)の元凶は溢(あぶ)れ者共で、これらも難無く平定し、海と陸との安全を確保してまいりました」

 天皇(スベラギ)は、この度のクマソ征伐から帰京し、一回りも二回りも大きく成長した我が子コウス(ヤマトタケ)の報告をはるかな昔の出来事のように聞きながら、夢に生き、何も怖いものもなかった自らのツクシでの戦いの日々を、二重写しに思い描いて大層満足気のご様子でした。
 コウス皇子(みこ)には、たくさんの賜物(たまもの)が褒美として与えられました。

終り

出典
ホツマツタエ(国立公文書館蔵)
秀真(ほつま)政傳紀(和仁估安聰訳述)
高畠 精二